看護の今から未来へOriginalPublisherをめざす医学・看護学と関連分野の専門出版社 すぴか書房
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ほんとうの看護学のために
阿保 順子 [著]
四六判(上製 ) 169頁 定価( 本体2,500円+税)
ISBN978-4-902630-24-4
こころとからだ、あるいは主観と客観の二分法は科学のための便法に過ぎない。現に存在するのは心身一如たる身体なのである。その身体を離れて実践はあり得るだろうか。臨床は身体的な営みの場である。人の奥深さ、身体の不思議・・・・看護の神髄にふれる思索の集成

【著者】あぼじゅんこ(長野県看護大学名誉教授)
【主要目次
はじめに
    身体という言葉
第1章

身体 からだでもなく、こころでもなく
1.日々の暮らしの中で
 ●科学が説明してくれないこと
 ●デジャ・ビュ deja vu
 ●「えもいわれぬ」感覚
 ●読書の醍醐味●当たり前が当たり前でなくなるとき 
2.病気体験のさなかに
 ●コントロールが及ばない体に恐怖する身体
 ●ケアする手は身体の境界をこえる
 ●希望をもたらす言葉 
3.自分とは? 私が私であることの不思議
 ●じっと手をみる
 ●解離 
4.患者さんの自殺にまつわる体験
 ●予兆
 ●「事後」にしかわからないこと
 ●徴候・予兆と予知とのあいだ

第2章

身体の底をみる 重度認知症患者の行動観察をとおして
1.原初的身体
 ●言葉と身体
 ●「さわる」行動の意味
 ●感動する身体
 ●相互依存的な身体 
2.身体の所有 自分の体を自分のものと感じとること
 ●ヒトから人間になる―自己の成立
 ●自分から離れてしまう身体*自他の区別*一体感の喪失 
3.還っていく身体 身体の内閉化
 ●見当識障害の進行―発達過程の逆をたどる
  *過去に覆われていく会話
  *発達の初期段階に還っていく言葉
 ●自己接触行動 
4.徘徊の理由
 ●なぜ歩きはじめたのか
 ●未知なる世界の入口に立つ不安と恐怖
 ●還るべき場所

第3章

身体の変容 精神病を患う人々が経験している身体
1.看護師の実践を導く患者理解を求めて 
2.自他を区別する境界線 自己が存在するための絶対条件
 ●ほどよい自我
 ◆自我
 ●脆弱な自我
 ●統合失調症急性期の人々の精神構造
 ◆ホメオスターシスの崩壊 
3.自己が霧散してしまった身体
 ●患者が語る発病時の身体
 ●自分と周囲環境が逆転する
 ●感覚の異常
 ●時間が「乗っ取られる」
 ●急性期を経過すると 
4.未分化な身体への逆
 ◆孵化する前の状態 
5.統合失調症急性期の看護
 ●保護膜という考え方
  *外側に保護膜を張る
  *保護膜をはぎ取らない
  *保護膜が張られていくことを妨げない

第4章

看護技術と身体 
1.相互浸透する身体
 ●清拭する手の力
 ●能動と受動の反転 
2.看護技術と看護師の実践
 ●技術はどのように発揮されるのか
 ●適用の背後にあるもの 
3.看護手順
 ●作法の意味
 ●順番のみの教育
 ●かつて、看護技術には思想があった
  *国分アイのナーシングアート
  *大関 和の実地看護法
 ●非侵入的に接近し、非侵襲的に触れる
 ●気づかい 
4.実習の意味 
5.技術の修得
 ●反復 

第5章

関係としての身体 身体の重層性、全体性、現場性 
1.身体の重層性
 ●意識的身体―身体の表層
 ●オノマトペ的身体―身体の中間層
 ●“領域”としての身体
 ●病気における身体の異変
 ●「触れる」ということ
 ●時間の拡張―現在として続く過去
 ●原初的身体―身体の基底層
2.身体の形成―歴史が刻まれていく身体
 ●発生
 ●発達―意識される身体
  *社会によって、時代によって変容する身体
 ●「こころ」と「からだ」に分かれた身体―身体の再所有
 ●老いの進行と身体―還っていく身体
 ●見方を変えると見えてくること 
3.間身体的な現象 
4.身体の全体性*階層構造の理解の仕方
 ●看護技術の全体性 
5.見えるということの関係性 
6.身体の現場性

  第6章

身体の理論と看護学  
1.身体論的な見方とは
 ●看護理論における身体論の不在
 ●なぜ身体の現象に目を向けるのか 
2.さまざまな身体論
 ●人間とは何かという問い 
3.高度な看護実践能力を身につけるために
 ●専門看護師にみる実践力
 ●CNS教育と看護学
 ●臨床で発揮されている看護師の実力

  第7章

身体の生成、認識、つながり(インタビュー)  三浦雅士 聞き手:阿保順子

あとがき
【推薦文/書評】
 

『身体へのまなざし』の書評が“精神医療”No.81(発行:批評社)に掲載されました。評者は西川 勝氏(大阪大学コミュニケーションデザインセンター)。
氏は「身体への関心のはじめは、患者さんからにじみ出ていた儚さであった」という本書冒頭のフレーズに喚起された氏自身の若かりし頃の記憶から書き始める。哲学を学び働きながら看護学校に進学した彼は「看護学校での授業は、ほんとうに大事なことほど適当にやり過ごされている気がしていた」が、精神病院の現場経験の魅力は色あせることがなかった。病棟では患者のさまざまな「気配」を感じ、「精神科看護の現場は、一般の人が想像するようなカウンセリング的な言葉で充たされていない」ことを知る。そして「声にならない吐息のにおいに近づくこと、視線の合わない患者の後ろ姿を見つめること・・・ぼくと患者さんの身体がすれちがったり、ぶつかったりしながら病棟の時間は過ぎていった。」そのことを20年以上経った今も身体が覚えていると記す。そのような評者であるから、冒頭のフレーズも「レトリックとしてでなく、事実として、ぼくの経験にもある」と述べ、このような事実をまともに取り上げず、むしろ排除してきたような看護学(教育)に一石を投じた本書の意義をとらえたうえで、共感あふれる紹介をしてくださっている。さらに彼自身の論考も加えられていて興味深い。その中からいくつか抜粋させていただく。
「世界を言語化する以前に身体はある。意識やことばを操る知性は、身体に比べて新参者なのだ。身体には個別の肉体を超えた生命の原初にまでさかのぼる記憶が息づいている。阿保さんの身体論は、壮大な生命論にまで広がる裾野を有している。」
「・・・自分を看護したナースの手技に、ケアする身体とケアされる身体が、互いの境界を越えて交叉、浸透していく有り様を描き出す場面は、複数の視点を持ち得た者にだけ記述が可能になる希有なものだ。視野を広げるのと視点を変えるのは全く違う。」
「ほんとうの看護学のために必要なのは、人体に向きがちなまなざしを身体へと振り替えること、つぎにもとめられるのは『身体からのまなざし』を持つことではないだろうか。」
そして、最後はこのように締めくくられている。
「読むということで、これほどに自分が揺さぶられる本が、看護の世界から発信されたことを、限りない喜びを持って伝えたい。」

 
 

『身体へのまなざし』の書評が“看護実践の科学”9月号に掲載されました。評者は鈴木正子氏(前東都医療大学教授、小社刊『あるケアのかたち』著者)。冒頭、「看護界に出現したほんとうの意味での“看護身体論”と言っていいのではないだろうか。・・・・久しぶりに読書の醍醐味を味わわせてもらった」と述べたうえで、とくに印象に残る内容が紹介されていく。共通する問題意識を持ち続けてきた鈴木氏の筆ならではの熱のこもった批評である。そしてまとめの段で、「本書は「ほんとうの看護学のために」書かれた警世の書と言えようが、後輩の看護師たちに真の看護技術のあり方を語り継ごうとする熱い思いが、この優れた問題提起を生んだということを見落としてはならない」との言葉を加えておられる。また、「それぞれの章の記述が随所で響き合い、看護学の真のあり方への問いが展開される手法にも感心した」との評もあり、編集者としてもうれしく読んだことを付言する。

 
 

・『身体へのまなざし』の読後評(書評・推薦)を大井 玄先生(東京大学名誉教授)と大野弘機先生(北海道医療大学名誉教授)が寄せてくださいました。以下の「こちら」をクリックしていただけるとPDFが開けます。是非お読みください。
大井 玄「必読書として推薦します―ケアのポイントを衝く現象学的身体論」こちら
大野弘機「ひとつの感想―ほんとうの看護学への期待」こちら

 
 

『身体へのまなざし』の書評が“精神科看護”5月号(通巻284号)「本との話」欄に掲載されました。評者は東谷敬介氏(市立札幌病院精神医療センター)。
前半は、身体という言葉が何を指しているのか、そして「身体の重層性」やその「相互交流」といったキーワードの意味を理解したうえで、著者の意図を「看護における身体の相互交流の経験を客観的な事実に準じるものとして考察の対象とし、看護学として追究すべきであると説く」こと、それによって「新たな可能性を見出すこと」とまとめている。後半は、評者自身がもっとも感銘を受けたという看護技術と身体の章の内容に触れて、「反省を促される指摘」や「紹介し尽くせない示唆」に満ちていると述べられている。最後の段落は次のように締めくくられている。「本書は、じわじわと身体に染み込んでいく感覚を読者にもたらし、それが全身にいきわたったとき、言葉にできない体験ができると思う。さて、みなさんの“身体”はどのような反応をするだろうか?」

 
 

『身体へのまなざし』の書評が“精神科看護”5月号(通巻284号)「本との話」欄に掲載されました。評者は東谷敬介氏(市立札幌病院精神医療センター)。
前半は、身体という言葉が何を指しているのか、そして「身体の重層性」やその「相互交流」といったキーワードの意味を理解したうえで、著者の意図を「看護における身体の相互交流の経験を客観的な事実に準じるものとして考察の対象とし、看護学として追究すべきであると説く」こと、それによって「新たな可能性を見出すこと」とまとめている。後半は、評者自身がもっとも感銘を受けたという看護技術と身体の章の内容に触れて、「反省を促される指摘」や「紹介し尽くせない示唆」に満ちていると述べられている。最後の段落は次のように締めくくられている。「本書は、じわじわと身体に染み込んでいく感覚を読者にもたらし、それが全身にいきわたったとき、言葉にできない体験ができると思う。さて、みなさんの“身体”はどのような反応をするだろうか?」


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